時間があるときにどうぞお読み下さい駿台甲府高等学校普通科 教諭 野倉 英明(17期生)
2012年1月5日
駿台甲府高等学校普通科 教諭 野倉 英明(17期生)
17期生の野倉英明と申します。数学科、空手道部顧問です。先輩、同輩、後輩の皆々様のご活躍はいろいろな経路(新聞、SNS、教員の情報網など)から耳にしております。私は、その全員が過ごした高校のプールだったところ(今は職員室)にてこれを書いております。後輩の皆様には駿高にプールがあったことをご存知でない方も多いことでしょう。
ボロかった本館や北館が無くなって、まことにすがすがし…、いえ、寂しくなると思ったあの日からもうすぐ6年。そこに、なんということでしょう、バリアフリーで大きめのエレベーターが付いた、足腰の悪い教員(いない)への匠の配慮が嬉しい新本館が建った年から、私もここで働いております。
自己紹介も兼ねて以下に、数年前自分が初めて担任したクラス(※)が卒業したときに書いた(書かされた)卒業文集「ペリパトス」への寄稿を転用します。同時に、懐かしい当時の風を感じていただければ幸いです。
『 どんな高校生であったかを私に書かせるとは、教育的配慮上、明らかに人選を間違えていると思うが、私も大人。上司からの圧力もあり、快く引き受けた。が、「まじめで素朴な生徒でした。」で完結してしまうので、「私がどのような高校で生活を送ったか」を書こうと思う。
1年次。私は八王子からある甲府の高校に通った。寝て起きれば甲府に着くので辛くはなかった。時に、目を覚ますと韮崎の仏像があったり、小淵沢で起こされたりもしたが。解けるまで帰れない数学課外(加害)「デスマッチ」の常連だった。自分が最後の一人となったがそれでも解けず、教員の方が諦めて帰されたこともあった。敢えて言おう、カスであると。デスの貴公子と呼ばれ、有力な留年候補であったが無事進級した。
2年次。「旭日プリズン」(寮)に入る。天井や壁に穴・焦げ跡、麻雀牌の散らかった異臭を放つ部屋などが多々あり、エピソードにも事欠かない充実した日々であったが、ひとつでも書けば失職しかねないので自粛する。楽しかった。楽しすぎて再び留年の危機に。この主たる原因である数学を何とか勉強させようと、ある恩師が「数学の教員になったらどうか」と無理のある助言を下さり、それを真に受けて人生を踏みはずした。
3年次。「曙プリズン」(寮)に入る。「旭日」の監獄のような自室とは対照的に、12畳もあるセレブな自室…の隅で暮らす。部屋には広さ以外何も無かったのでよく側転をした。1、2学年を通して「予習無き者は教室の後ろに立て」というスパルタ英語教育を施された私は、その恩師が他学年に移ってしまったため英文法の授業を初めて座ったまま聞いた。朝はメタル、広末○子、古典の恩師から借りた「山月記」の朗読CDなどを、半キロ離れたセブンにまで聞こえる大音量で流した。私の部屋はウーファー完備だったのでドア、ガラスなどがビリビリと震えた。
センター百日前になると寮の内輪衆6人で「遊び納めの深夜祭」と称して鉄アレーを持ち、ギターをかき鳴らし、音楽をかけて夜通し踊った。翌日、筋肉痛でほぼ全員が動けなかった。しかし、そこは名門進学校。それぞれ、中央、明治、早稲田(2人)、東北、学芸に進学していった。勿論、浪人を経て。
読者はこれがどこの高校なのか気になったことと思う。そう、私の出身高校とは、すん…うわ、何をす@×?△…』
近くをお通りの際には、是非お立ち寄り下さい。多くの先生方(あ、今は同僚?)が元気にしておられます。皆様のますますのご健康とご活躍をお祈りしております。